大分戸次のごぼうを皆様に

「戸次」の歴史

「戸次」の歴史

現、大分市の戸次地域は大友宗麟の家臣、戸次氏が領有しておりました。大正14年(1584年)九州制覇を狙う薩摩、島津家久を総大将とした大軍(2万余り)が大友攻略の足掛かりとするため、大友宗麟の家臣、利光宗魚が死守する鶴賀城を囲み、秀吉から大友救済に派遣された軍艦仙石秀久、長曾我部元親、十河存保の名だたる武将の四国連合軍との壮絶な戦いが、この地、戸次川で繰り広げられました。

島津軍の釣り野伏の戦法にかかり、大友・四国連合軍は大敗を喫し、短時間で2千7百余人が戦死し、局地戦では日本の戦闘史上でも類をみない「戸次川の合戦」が行われた場所です。

鶴賀城利光軍は、島津の大軍2万を一手に引き受け、城兵・住民合わせてわずか3千余名で20日あまり足止めし、多大な損害を与えました。

 

利光宗魚城主死すとも、家臣団は一致団結し最後まで城を守り抜いて鶴賀城は落ちなかったことにより、郷土の誇り「不落の鶴賀城」と言い伝えられています。

籠城にも十分に耐えられるように、食料・水も十分に備え、特に5菜3根(ごぼう)を栄養補給源として食し、城を死守した自信と誇りから、皆が幾久しく健康で平和であることを願い「食物繊維、栄養たっぷりな味噌汁がかかせなくなり、ごぼうを作付けするようになりました。

大分市の南に位置する戸次は、古代より交通の要街として重視され、江戸時代には日向街道筋に市場のある在町として発展しました。戸次本町の大庄屋であった帆足家は、豊後南画の大家「田能村武田」や儒学者「頼山陽」など多くの文化墨客と親交が深く、当地区は文化の馨農村商易の市として栄えました。

大友一族「戸次氏」

otomo_sorin源平合戦以前の豊後武士団は、大神一族が豊後を席捲しており、戸次氏もその大神一族で、当時から大分郡(戸次)を中心に、速水・国東・大野・海部郡にわたって領有していた。その後大友氏が豊後国の守護となり、大友系戸次氏となる。

戸次氏は大友庶家中の名族の1つとされ、戦国期九州を代表する勇士と呼ばれ大友家の代表的武将であり、鎧が岳城主として代々、大友惣領家を支えつつ勢力を拡大していった。大友宗麟を支えた戸次氏15代戸次艦連は、戦国期九州を代表する勇将とうたわれたのちに立花道雪を名乗って、立花城主となり筑前を守った。以降立花氏は大友一族の中で唯一幕末まで大名として存続した。

永禄2年大友義鎮は「豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後」6か国の太守となり、名実ともに九州一の戦国大名となったのである。

永禄6年、義鎮は突然出家して宗麟と号し、臼杵丹生島に本格的な城を築くことになる。また、戸次艦連も入道し道雪と名乗った。

利光宗魚と鶴賀城について

晩年の大友を支えた62将の一人。キリシタン武将であった。鶴賀城(利光城)城主

46179372_624鶴賀城は言い伝えでは大神惟基の二男阿南惟家の居城であったものを大友初代能直の三男 親家が賜り利光氏を名乗って代々の居城としたといわれている。

天正14年の島津侵攻時に 島津軍の攻撃を受け(鶴賀城合戦。城主利光宗魚)戸次川の合戦で大友方が敗退した後城兵は臼杵丹生島城に 収容された。最高所の標高192.1mに主郭がある。

 

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